Teramachi OSU寺町・大須の誕生
■寺町・大須の誕生
尾張地域の中心は、長い間、織田信長が居城とした清洲城とその城下町でした。
しかし、関ヶ原の戦い以降の政治的な問題や、水害に弱い地形上の弱点があることなどから、徳川家康は名古屋城築城を決定します。
これにともなって、清洲から名古屋へと武家屋敷、神社仏閣、橋、町屋、門などあらゆるものが移され、現在の大須界隈は名古屋城下の南寺町として、神社仏閣の多く集まる場所として指定されました。
慶長17(1612)年には家康の命により犬山城主成瀬正茂が現在の岐阜県羽島市桑原町大須にあった真福寺(大須観音)を現在地に移転。周辺地域は大須観音の門前町として発展し、大須と呼ばれるようになりました。
Nigiwai大須のにぎわい
■大須のにぎわい
大須観音の移転後、周辺が本格的ににぎわいを見せるようになるのは、七代目藩主徳川宗春の時代です。江戸では八代将軍吉宗が、質素倹約を良しとする政治を行っていました。それに対して、宗春は芝居や芸事を奨励し、消費促進、開放政策を行い、その結果、名古屋の街は繁栄を取り戻すことになります。
OSU SHOTENGAI大須商店街誕生
■大須商店街の誕生
大正元年、万松寺が領有する付近の山林の大部分(現在の大須3丁目付近)を開放したことにより、大須商店街が誕生。劇場、演芸場、映画館などが作られ、名古屋市内随一の歓楽街となりました。
明治時代に再び大須に設置された遊郭(旭遊郭)も、多くの人でにぎわいましたが、1919年に中村区大門地区に移転しました。
昭和に入ると、戦後の復興事業で若宮大通(100m道路)や伏見通がつくられたことにより、名古屋中心部の盛り場は分断され、大須の街はだんだんと寂しくなっていってしまいました。
1970年代後半になると、アメ横ビルや家電販売店、パソコンショップなどが集まりはじめ、秋葉原、日本橋(大阪)とともに日本三大電気街といわれるようになりました。その後は他の電気街と同様に、オタク街としての性格を強めていきました。
現在では、海外の商品を販売する店舗や外国人が集まる店舗などが多くあり、さまざまな国々の文化やファッション、グルメに触れることができる多国籍な街という側面も持っています。また、老若男女問わず、安価な洋服やおしゃれ小物、古着を求める人々が多く訪れるファッションの街でもあり、毎日多くの買い物客で賑わっています。